東上沿線物語
 
 

【沿線散歩】志木・引又宿跡  野火止用水末水が貫流、水の豊かな景観だった

2010/01/21配信  提供:東上沿線新聞

【沿線散歩】志木・引又宿跡  野火止用水末水が貫流、水の豊かな景観だった
 志木駅から北へ約10分歩いた本町3丁目交差点の西南の角に水車のモニュメントがある(写真)。

 志木は江戸時代、宿場町だった。地名が引又だったので、宿場を引又宿、そこを通る街道を引又街道と呼んだ。岩槻、与野から清戸(現在の清瀬)、日野へと続く奥州街道(奥州へ向かう道)の一部である。本街道に連絡する脇街道ながら、引又宿には米屋や呉服商などの商家や飲食をする店が並んでいたという。

 この宿場には、本紙で再三語られている野火止用水の末水が街道の中央を貫流していた。「水の都」はオーバーにしても、水の豊かな独特の景観だったに違いない。その水を使って精米を行う水車が3基設けられていた。その一つが、本町3丁目にあった「上(かみ)の水車」で、大正初期まで稼働していた。その場所に水車をかたどったモニュメントが作られているわけだ。

 さらに北へ徒歩10分弱で柳瀬川と新河岸川の合流点に至るが、用水は、合流点のそばの市場坂上と呼ばれる地点まで流れ、そこから対岸の宗岡地区へ、川をまたぐ形で設けられた「いろは樋(どい)」という大がかりな施設で送水していた。

 1662年に宗岡の代官が、米の収量を増やすための灌漑施設として開設したもので、全長260メートルに及ぶ。いろはと同じ数の48のつなぎ目があったことから、いろは樋と呼ばれる。送水側は、市場坂上に設けた小枡に水を貯め、それを坂下に設けた大枡に送り、大枡に満たされた水の圧力で川をまたいだ送水を可能にした。市場坂上の交差点の屋外に、模型が展示してある。

 明治31年にレンガ作りとなった大枡が住宅の間に現存する。それを横に見て少し歩くと、新河岸川の船着場としてにぎわった引又河岸(かし)の跡に至る。川越と江戸を結ぶ舟運が盛んで、回漕問屋が活躍した。河岸による物資の集散も引又宿の繁栄をもたらした要因だったのだろう。

 引又宿は明治以降、街道沿いの商店街として栄えてきた。ここにあった明治10年建築の2階建て土蔵造りの薬店「村上快哉(かいせい)堂」の建物が市に寄贈され、対岸のいろは親水公園中州ゾーンに移設、公開されている。

 「中風根切薬」と大書された屋上の看板が目を引くが、これは自家製造していた漢方薬で、ヒット商品となった。志木市主催の生涯学習講座で郷土史を学んだ年配のボランティアが案内係をしており、店蔵の建築物の特徴や販売していた漢方薬の効能、さらには引又宿の繁栄の様子まで話してくれた。
(志木市在住 周防洋)

最終更新:2010年1月22日(金) 11:09:12

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開催場所
引又宿跡
団体分類
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地域大分類
県西
地域小分類
志木市
対象ステージ
指定なし

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